美味の後ろに風景があり、人がいる

  西別鮭(にしべつざけ)

カムイ・トゥー(神の湖)の聖水から生まれるカムイ・チェプ(神の魚)。その一万キロの旅が終わる時、男たちの漁が始まる。

北海道道東の別海町本別海。かつてアイヌの人達が、ヌウシペッ(豊かなる川)と呼んだ西別川がオホーツク海に注ぐ河口の漁師町は、美味なること日本一といわれる「西別鮭」の産地として知られている。
西別鮭が特別に美味に育つ理由は諸説あり、私のような素人に、どれが確かとは言えないが、古くは江戸時代の1800年から幕府崩壊の1867年までの間、「将軍献上鮭」として毎年の献上が命じられたという記録からしても、ここの鮭は昔から特別の鮭として知られていたようだ。

西別川の水源は、カムイ・トウ(神の湖)と呼ばれた摩周湖の伏流水だ。透明度世界一をほこる神秘の湖、その聖水に生まれ育まれた鮭の稚魚は、春になると海に下り、夏をむかえる頃、北の海に向かって旅立つ。
その旅は、はるかアラスカにまで至り、約4年を北太平洋で過ごした後、母なる西別川を目指して帰ってくる。
摩周湖
往復1万キロを越える旅路の果てに、鮭は驚異的な能力で故郷の川を探し当てる。始めはゆっくり遡上するが、パートナーを見つけると、一気に上流の聖水を目指す。

産卵場所にたどり着くと河床に産卵用の穴を掘る。メスが産卵するのと同時にオスが精液をかけて産卵は終わり、間も無く鮭の命も終わる。死を間近にした鮭はホッチャレと呼ばれる。海で銀鱗をきらめかせていた時の姿とは比べようもなく、ホッチャレの魚体はどれも傷だらけで、皮やヒレは裂け、肉のえぐり取られているものも珍しくは無い。自分の命と引き換えに無我夢中で子孫を残そうとする鮭、アイヌはこの魚をカムイ・チェプ(神の魚)と呼んだ。

そのカムイ・チェプが今秋も帰ってきた。8月29日「今朝の大豊水産の鮭漁は2000尾でした」の一報がファックスで入った。発信元は別海町の友人で網元直販「魚真」を経営する、大橋吉太郎氏だ。大橋さんは一族6人で大豊水産という水産会社も共同経営しており、鮭の初漁の成果を知らせてくれたものだ。前々から鮭漁の現場を体験したかった私としては、直ぐにも道東へ飛んで行きたかった。ところが、折からの台風15号に邪魔をされ、中標津空港に私が降り立ったのは、9月4日の午前10時40分だった。

この旅には三つの目的があった。一つは鮭漁の取材。二つ目は、鮭の加工技術で道内一といわれる大橋さんの仕事を、徹底的に取材すること。三つ目が、大橋さんの作る絶品の加工鮭を、「上條」のメニューに生かすための相談だ。

大橋さんのお宅は、浜に面した広い敷地に自宅と加工場と、かまぼこ型の大きな倉庫が、隣接して立っている。倉庫には漁具や干し魚用の道具が山ほど収納されている。魚の干し場は、前浜の砂の上に高床式板敷きでせり出し、全体が目の粗い防鳥ネットでおおわれている。
干し場の直ぐ先にはオホーツク海がひろがり、かなたに大橋さんが5才まで暮らしていたという、国後(くなしり)がかすんで見える。
大橋さんと奥さん(久子さん)は、加工場にいた。他に2人の女性スタッフが一緒だ。生魚が相手の仕事なので、手を止めさせては申し訳ない。挨拶もそこそこに、さっそく取材をさせていただくことにする。
氷水を張った水槽に解体前の鮭が二十本ほど沈んでいる。その数からして、下処理は終わりに近いようだ。大橋さんがそれを引き上げ、マキリ(漁師の使う小刀)でエラを取り、腹を裂き、内臓を抜く。内臓を抜くと背骨にそって幅およそ1センチ、長さ30センチほどの血ワタが現れたが、これはマキリの切っ先の一なでと、血ワタ引きの一引きでプルルンと外れ落ちた。
解体作業中の大橋氏
この血ワタは鮭の腎臓で、メフンと呼ぶ塩辛の原料だ。ちなみにメフンとはアイヌ語のメフル(腎臓)からきたもの。達人の刀さばきは物足りないほどおだやかで、スルリサラリと解体してしまう。エラと内臓を抜いた鮭は、次の水槽に入れられる。次の水槽の三方には、奥さんを含む3人の女性が待ち構えていて、腹の中を洗い、表皮のぬめりをこそぎ落とす。この日の仕込みは「棚漬け」と呼ばれるもので、かつての「献上鮭」の製法を踏襲するものだが、その製法をお伝えするのは、またの機会に譲る。

大橋家はご夫妻の他に、息子さんの丈晴さんご夫妻と、孫の丈一朗君の5人家族。夕食は家族団欒の邪魔をして、鮭の「ちゃんちゃん焼き」と、イクラのたっぷり入った「秋あじ鍋」をたらふく堪能させていただいた。食後は話が弾み床についた時には、すっかり夜もふけていた。海の様子が気になり、聞き耳を立てたが波の音を確かめる前に、眠りに落ちた。

朝焼けの海に8人の漁師と私を乗せた船が滑り出した。漁場は大橋さんの家から目と鼻の先で、沖に向かって定置網の導網(みちあみ)が、まっすぐ1500メートル設置されている。
その網の左右には鮭を捕らえるための「溜り」と呼ぶ囲い網が500メートル間隔でそれぞれ3ヶ所、計6ヶ所仕掛けてあり、それを次々に引き上げてゆくわけだ。たぐり寄せた溜りの末端が船べりに近づくと、鮭の重みで船が大きく傾いた。
それでも男達は力まかせに網をたぐる。必死に暴れる鮭、朝日に輝いて飛沫が舞う。船べりをこちらに乗り越えた鮭は、一気に船倉の氷水の中へなだれ落ち、一瞬で息絶えてしまった。いわゆる氷ジメだ。
全ての溜りを回り、浜に戻ると、重機を使って船を砂浜に引き上げる。荷台の水槽に氷水を張った2台のトラックがバックして来て、船の左右に寄り添い停車した。男達は船倉いっぱいに横たわる鮭の中に立ち込み、1尾づつトラックの水槽に移した。この朝の漁果は850尾。最後の1尾を積み終わると2台のトラックは、西別川河口にある別海漁協に向かって走り出した。
浜に引上げられた漁船

西別川河口にある漁協の広大な敷地内には、露天で鮭用の水槽が、あちらこちらに据えられていた。同じ名称の書かれた水槽が7〜8基づつかたまり、そうしたかたまりが、かなりの距離をおいて何ヶ所も設置されている。どうやら船ごとに場所が決まっているらしい。
トラックは大豊水産と書かれた8基の水槽に近づくと、バックして、鮭の選別台に荷台の後部を押し当てて止まった荷台のアオリを切ると、台の上に鮭と氷水が、ドオッと押し出した。男達は大急ぎで、オス、メス、等級や大きさなどによる選別を始めた。特大、銀A、B、ピン、キズ、BB、などと選別された鮭は、それぞれの水槽に分かれて、再び氷水の中で競りを待つ。
鮮度を保つため、鮭はこれ以上動かさない。ここでの競りは仲買人達が広い敷地内を大移動しながら競る。大橋さんが「魚真」のトラックでやって来た。自分の引き受けた150尾を積み込み、氷詰にすると「先に帰っていますから」と、あわただしく帰って行った。
鮭の選別
その後を追いかけて「魚真」の加工場に行くと、先ほどの150尾は、すでに水槽の氷水の中に沈められている。・・・三時間前まで海中にいた鮭が、船倉の氷水、トラックの氷水、漁協の水槽の氷水、「魚真」トラックの氷詰、加工場の水槽の氷水、と、低温リレーで短時間に加工される。
・・・「西別鮭」が天下一品といわれるのは、恵まれた自然条件もさることながら、こうした魚の扱い方を、あたり前のことにした本別海の漁業関係者の意識も、大きな要因になっているのだろう。
浜の博士といわれる大橋さんは、そんな人達の先駆者的存在で、水産資源の増殖事業、漁法の改良、漁獲後の鮮度維持システムの改良など、彼の価値ある足跡は数多い。

そうした足跡の中でも特別大きなのが「西別川の取水計画阻止」だ。平成2年に釧路への引水を目的とした、西別川上流部からの取水計画が明るみに出た。
川の水がやせたら海もやせてしまう、と大橋さんは周囲に計画阻止を呼びかけたが、浜で立ち上がったのは彼を含め、たった2人だけ。それでも彼は根気強く周囲を説得して歩いた。
上流部の人達とも交流を持ち、学識経験者も巻き込んで、着実に渦を広げていった。時には彼のところを、肩書きのある人達が黒塗りの車を連ねて訪れ、考えを変えさせようともしたが、逆に浜の博士から、森や川や海の講義を聞かされて帰るのが落ちだった。
戦いは5年で幕が降りた。平成8年の1月、取水計画の中止が公表されると同時に、変人と常人の立場は逆転し、風は追い風に変わった。「西別川流域環境保全事業」として、森づくりに北海道の予算までついた。もし、大橋さんという存在がなかったら、別海の豊かな海も、「西別鮭」のブランドイメージも、過去のものになっていたに違いない。

大橋さんは、北方領土の国後(くなしり)島泊のキナシリで漁師の家に生まれた。祖父母、父母、兄弟3人、叔父2人、叔母、叔母の子供3人の、一家13人で平穏に暮らしていたが、5才の時、終戦。それから10日ほど後、国後島は突然ソ連軍に占領されてしまった。日に日に迫る危機感と、全てを失う喪失感のはざまで、決断を迫られた一家は脱出隊に加わる道を選んだ。
9月27日、夜陰に乗じ、脱出を請け負った10トンのホタテ船に、4隻のこっぱ舟をワイヤーロープで直列につなぎ、数家族の人達が家財道具とともに分乗して脱出。ところが途中で大シケにあう。荒れ狂う波の谷間で、舟に入る海水を必死でかき出すこと14時間、かろうじて根室にたどりついた。
難民生活を始めたが、極寒の冬が迫っている。11月、一家は安住の地と生活の糧を求めて北へ向かう。幸い今の本別海で、空いた漁場と網、それから住居用に魚粕蔵を借りることが出来た。
しかし、小作漁師の生活は貧しく、しかも、昭和22年の冬には母が出産当日、子供を産めないまま他界した。一家は度重なる苦難にみまわれたが、身を寄せて暖をとり、力を合わせて働いた。これが現在、大橋一族6戸で共同経営する「大豊水産」の始まりだ。恵みと恐怖の海、喜びも悲哀も染み込んだ大地。今の大橋さんは、その全てに、しっかりと根を張って生きている。
大橋吉太郎 久子さんご夫妻

もう少しシバレルようになると、大橋さんは、本別海の自然をたくみに操り、色々な干物を作る。大橋さんは天日干ししかやらない。ミネラル分の多い塩を使い、振り塩で仕込み、一晩おだやかに塩をしんとうさせて、翌朝干す。工程は2日がかりだから、天気図とにらめっこでやっても、仕込める量は限られる。ここで捕れる魚しか加工しないのも、天日干しもあたり前で、塩の使い方こそ命だと言う。塩梅は自分の手が覚えているからと、塩は誰にも任せない。
11月から作る「鮭とば」は、一度干した鮭の身を皮付きのままスティック状にカットし、さらに寒風にさらしたもので、鮭ジャーキーと呼べるようなもの。
塩の使い方が要です。
「とば」の語源はアイヌ語からきたものだが、後から「冬葉」の文字があてられた。寒風にそよぐ様を想像させ、なかなか味がある。
「鮭冬葉」は北海道の珍味として知られ、その多くはドライタイプだが、大橋さんの「鮭冬葉」は半生タイプだ。大橋さんの作る「鮭冬葉」には風景が宿っている。軽くあぶって噛みしめると、凝縮したうまみとともに、道東の海や川や森、空や陽や風がじんわりにじみ出す。

ところで先に、「大橋さんの作る加工鮭を、上條のメニューに生かすための相談」と言ったのが、この「鮭冬葉」を使った特製ラーメンスープの開発だ。このラーメンスープは、おそらく全国でも初の試みだろう。大橋さんは、このラーメンのために特注の「鮭冬葉」作りを約束してくれた。西別鮭を道内一の職人が手塩にかけ、天日と寒風で作り上げる「鮭冬葉」。これをラーメンに使える私は幸せ者だ。

「魚真」からは、「鮭棚漬け」や「鮭冬葉」の他にも、美味な魚介が色々取り寄せられる。「しょう油漬いくら」・・・これまでに食べたいくらの中で最上。淡い外皮に包まれたルビー色の液体。とろりと凝縮した天然の旨味が口中で、ぬくいご飯と混ざり合う快感。いくらは苦手などという罪深い人達に食べさせたら、半数は改心させてやれるかもしれない。

「頭付きコマイ干物」・・・「・・・焼き過ぎないように。焼くと腹が少しくずれるかもしれませんが、鮮度が下がっているものではありません。通はそのキモ部分を吸います・・・」これは以前、大橋さんが送ってくれた「氷下魚(こまい)の干物」に添えられていた、便りの一部だ。この頭付の半生氷下魚、干物好きなら取り寄せてみると良い。必ず感動させる自信がある。私は、これを冷凍して小出しに楽しんでいる。

「チカ干物」・・・風蓮湖の氷下待ち網漁で水揚げした、キュウリウオ科の白身の小魚、チカ(ワカサギの親戚だが、海で生活し、産卵のため風蓮湖に入る)。淡白の奥に持つ、この魚固有の旨味が、薄塩と天日と寒風で引き出される。私の大好物。
肝心の棚漬けの紹介も、もう少ししておこう。

「鮭棚漬け」・・・最近出回っている養殖鮭のような、脂ノリノリを期待したら、あてが外れる。この塩鮭の本領は、シロザケが1万キロの旅で、大自然から与えられた滋味にある。
「将軍献上鮭」の製法を踏襲する独特の製造工程で、脂は血汁などとともに、かなり抜けてしまうが、その代わり天然鮭の滋味が、めいっぱい引き出される。
鮭棚漬け
焼いて白いご飯といただくのが何よりだが、ほぐした身と煎茶でいただく鮭茶漬けは、我が家一同からのお勧め。焼かずにそのまま薄くスライスして、野菜とマリネーにするのは、「魚真」の皆さんからのお勧めだ。

切りがないのでこの辺にしておくが、季節によって商品の内容は変わる。詳しく知りたい方は、直接、問い合わせされたし。
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